ずっと同じ朝が来ると思っていました。
朝、目が覚めてコーヒーを淹れぼんやりとしながら一日が始まって、夜、読書で終わる。穏やかでなにも起こらない毎日。
製本した作品を展示する締め切りに追われながらも、納得のいくものを作ろうとぎりぎりと奥歯を噛みながら作業したり、みちくさ市に何を出そうか悩みつつ値付けしたり。当日の朝、いつもの顔を見てほっとしたり。
やがてはずっとあたためていた考えが実を結ぶように、歩みを止めないように。その繰り返しを、一年、また一年と、この先、ほとんど劇的な変化は起こらないまま歳を重ねるのだろうな、思っていました。
それが或る日気がついたら、コロナ禍で日々の選択に困ることが多くなりました。
それほど窮する環境ではないように思っていても、それでもふと立ち止まり考えてしまうことが多くありました。そんな不安に、誰かに決めてもらいたいと思ったり、誰かのせいにできたら楽だろうなとふと弱気になることもありました。
それは決してわたしだけでなく、より深刻な選択をしながら正解の見えない毎日を送っている人は多いのではと思っています。
そんな時期。何かしら手を動かしていました。
黙々と手を動かしていると不思議と落ち着きました。
何かしら自分の手で作っていることが性に合っているのかもしれません。
作るという目的、先がはっきりしているからなのでしょうか。休みなく一日、豆本を綴じていたら、「ばね指」になってしまいました。
なにごとも「過ぎたるは及ばざるがごとし」であるのだなぁと反省し、今は、休みながら、豆本を綴じています。
というわけで、この期間、ほぼ豆本を制作していましたが、製本のために革にも慣れてみようと、ペンケースを作ってみたり。
耳がもげそうになるほど、つらくなってきたので、余ったガーゼ生地でマスクを作ってみたり。
とりあえず必要なものがあったら、まず自分で作れるかどうかと考えるようになり、指を痛めてからは「無理をせず」ということも含めて考えるようにもなりました。無理だったら購入します。
決して、進化しないといけないとか、すべてのものごとが成長を前提にしているとは思えないのですが、前をむいて歩くことは、少なからず気持を明るくしてくれるように思います。
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