試作の話を先にお話しましたが、タイトル通り、今回はテキスト、ここでは「なかみ」と言葉を変えますが、それについてお話したいと思います。
なぜ「なかみ」にそんなに時間を費やすことになるのか。
2つのことに時間が割かれます。
ひとつめは、なにをなかみにするか。
ふたつめは、どうなかみを表すか。
自分で作ったオリジナルである場合なら、当然、時間がかかるというのもわかります。自分で作っていないもの、例えば、古典と言ってもいいものを使う場合。それはそれで、意外にも時間がかかるものなのです。
夏目漱石の『吾輩は猫である』は、「さんま」を「三馬」と書いています。漱石には当て字(音の響きで漢字を選んで書いたもの)も結構ありますが、「三馬」は江戸時代に使われていたものです、今の「秋刀魚」となったのは、明治後半ということのようですが、少なくとも夏目漱石は慶応三(1867)年の生まれですから、当然、その表記になります。そこで、今の人にどうそれを含めて伝えていくか。
そんな一言で、当時の人の息遣いが、物語と一緒に味わえるチャンス。なのに。どこまで、それを今の息遣いに合わせるか。横組みか縦組みか、文字はゴシックにするか明朝にするか、ページの余白はどうするか。どこに注釈をいれるか。
一番大切なのは、現代に生きる人たちの息遣いにどこまで沿わすかということ。完全に、一緒に合わせることはできないし、自分たちの息と合わせてもらおうなんて、今手にしているわたしたちも望んではいないでしょう。ただ、おしゃべりでも、話の意味を説明しているうちに笑う機会を失ってしまうような状況と一緒で、ちょうどいい呼吸、ちょうどいい説明、合いの手があるように思います。
次回は、製本コンクールに出品したテキストについてお話しようと思います。
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